イエスの説明
最高法院の連中に悪魔だと断定されたその日、イエスは群衆に対し、たとえを用いて語り、たとえを用いないでは何も語られなかった。疑問を持った弟子が、理由を聞くと、イエスは言った。「彼らには天の国の秘密を悟ることが許されていないからだ」と。
そして、弟子たちに「種を蒔く人のたとえ」に秘められた謎を解き明かした。
私は、”イスラエルの家の失われた羊”を導くために遣わされた者である。
当初は、神が選びしイスラエルの民を教え導き、天上の御国のように神の支配する王国を地上に打ち建て、そして、その王国の影響力で周辺の国々の異邦人たちを導き、最終的には全世界の隅々にまで神の支配を行き渡らせる予定だった。
しかし、イスラエルの民が私を拒否したため、今後の地上の”天の国”のあり方は、当初予定していたものと違う形になってしまうだろう。
これから語る八つのたとえ話には、これからの”天の国”についてのたとえ話である。
旧約聖書のどこにも書かれていない新しい教えである。
しっかりと理解するように。
神は、私を通して御国の言葉(※種)を、イスラエルの民に語りかけてきた。
しかし、御言葉の種が実るかどうかは、イスラエルの民ひとりひとりの心の状態しだいである。
現に今日、イスラエルの指導者たちは、御言葉を受け入れることができず、私を悪魔だと断定した。
「ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」とは、私を否定したイスラエルの指導者たちのような、御言葉を聞いて悟らない者を意味する。
そうした者たちの心は頑なで、
自分が正しい、自分が信じている教えだけが正しく、それと少しでも違うところがあると間違っていると決めつける。
そして、間違ったものを徹底的に排除しようとする。
それが正義だと信じているし、罵詈雑言を浴びせてもいい、場合によっては殺してもいいと思っている。
こうした心の状態の者には、必ず悪魔(※たとえ話では鳥)が忍び寄る。
やっと手に入れた御言葉も、悪魔たちに一つ残らず奪い去られてしまう。
持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるのである。
今日、私を悪魔だと決めつけた律法学者やパリサイ人たちは不幸である。
彼らは決して”天の国”に入ることができない。
聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。彼らを待っているのは地獄の業火である。
ただし、裁きの時までに、もし彼らが悔い改めたならば、彼らであっても”天の国”の扉は開かれる。その可能性は極めて低いだろうが・・・・・・
裁きの時までが猶予期間である。
それまでに悔い改めなさい。
裁きが終わってゲヘナの火に投げ込まれてしまったら、もはやどうすることもできない。
彼らはそこで泣き叫び歯ぎしりする。
「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」とは、御言葉を受け入れた者である。
しかし、おっちょこちょいだ。心の状態がまだまだだ。心の畑が耕されていない。
御言葉を聞いて、感動して、「これこそ真理!」だと、大はしゃぎで伝道を開始する。
だが、私が悪魔だと断定された今、私の教えを信奉する者は、これまで以上に激しく迫害されることになるだろう。
地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるだろう。
彼らが今のような軽薄な心のままでいたら、これらの艱難を耐え切ることは難しい。
もっと教えを噛みしめなさい。
御言葉を腹に落とし込むことだ。
謙虚な気持ちで、努力を続けることです。
少しずつ心が耕されるだろう。
心から御言葉を求める者には、さらに御言葉が与えられる。
いつの日にか必ず御言葉の種が実るであろう。
”天の国”の扉は、こうした者たちに開かれる。
「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった」。こういう人もたちも、御言葉を受け入れた者である。
彼らは、神の教えの素晴らしさを素直に認める者である。
しかし、彼らは「自分なんかに、そんな立派な生き方はできない」と思っている。
彼らは、世の中のことが気になって気になって仕方がない。
あれが欲しい、コレも欲しいと、欲望を募らせ、
買うお金がないと嘆き、
病気のコト、恋愛のコト、昇進のコト、親のコト、死ぬこと、その他いろんなコトで、浮かれ、喜び、悲しみ、苦しんでいて、御言葉について深く考える余裕がない。
こんなことでは御言葉の種は成長しないし、実ることもない。
茨を取り除きなさい。
世の煩いと御言葉、いったいどちらが本当の意味であなたにとって大切か、それをよくよく考えて、茨を一本ずつ抜いていくことだ。
簡単なことではないが、御言葉を受け入れることができるほどの人なのだから、きっとできる。
こうした人たちにも”天の国”の扉は開かれる。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」とは、御言葉を聞いて悟る者である。
持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
”天の国”は彼らのものである。
正しい教えが説かれるとき、必ず魔が競い立ちます。
”道端”の御言葉を悟らない者は、やがて魔に蹂躙され、正しい教えを信奉する者たちを攻撃するようになる。悔い改めができないのなら、もはや救いようがない。
”石だらけ”のお調子者も、”茨”の煩い人も、御言葉を受け入れたことは評価されるが、その後の心のあり方次第で、道を踏み外すことがある。
魔は、イエスに賛同する者たちを常に見ている。正しい人が一人増えたら、魔の領域がそれだけ小さくなっていく。何とかして彼らを魔の領域に引きずり込みたいのだ。悪魔たちも必死である。
だから、付け入るスキを見せてならない。
常に謙虚な気持ちでいることである。
”良い土地”の人も、慢心してはならない。慢心こそ、魔の好物。「先生、先生」と褒め上げられて、神以上だと祭り上げられて、その気になってしまった教祖たちが、いったいどれぐらいいただろうか。
彼らは、本来”天の国”の指導者であるが、慢心のために転落してしまった。地獄の業火で泣き叫び歯ぎしりすることになるだろう。
①”石だらけ”のお調子者と、
②”茨”の煩い人と、
③”良い土地”の人たちは、
御言葉を受け入れた者たち、イエスを信じ、御言葉を行なう努力を続ける者たちである。彼らは既に天国の一員である。
”天の国”は見える形では来ない。”天の国”は、彼らの心の中にあり、彼らの手中にある。彼らとイエスをつなぐ霊的なネットワークが”天の国”である。
これらは、旧約聖書には書かれていない新しい教えであり、これから広がっていく”天の国”の秘密であります。
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